意識、モラールについて

これはもうほんとに個人的なことになる。

今回はモラール、わかりやすく言えばモチベーションとそれに伴う心身の健康について。

端的に言ってしまうと「がんばろう」という言葉を送るのに回りくどく書いてる感じです。

タスク解消のモラール

生活において僕は今かなりプレッシャーのあるというか、常々迫られもう据え置き機のゲームのできない期間にあるのです。

だからよりタスクに時間を割くのは勿論、意識して取り組む、能率的なタスクへの向かい方をしなければならない。

今日は所謂根性論が叩かれている(僕もそれを嫌う人間の例に漏れないのだが)が、僕のスタンスとしては根性があるのは”至極当然”であり、そこに論理性を加えてこそ至高の取り組みができる、と考えている。

因みに僕にはおそらくその両方が足りていないのだが、やはり強いて言うならば今の僕には根性、否、モラールが足りていないのだ。

 

タスクに取り組むのに辟易するし、特に最近は疲弊しているような感じがする。趣味に割く時間の削減が起因してストレスフルだし、外的要因のストレスにも過敏だ。

そこで見出した目的はふたつ。

 

区切りとカタルシスの確立<内的環境>

人間が物事に集中できる時間は一般に1時間ほどで、長くとも2時間までであるとされている。

では私がタスクに向き合うのにその時間だけでも全神経を集中出来ているか、というとおおよそ言いきれないだろう。

だからこそ意志力をもって取り組む必要がある。ここは単純に意識の問題だ。簡単なことではあるがかなり大きな課題である。

そしてカタルシスについて。

浄化、と表現するのがわかりやすいだろうか。僕のカタルシスは読書とゲームと運動だ。が、今の僕の環境ではこれを成すことが非常に難しい。だからこそ手軽なソリューションを見出さねばならない。風呂とかは比較的それに類すると思う。

すこし話がずれるがプロゲーマーのときど氏の試合前の心拍数を上げる運動(その場で高速でダッシュ)は興味をもった。実に論理的だし、ルーチンに成りうるだろう。

 

つまり没入するための自己の環境作りが求められると僕は考える。

 

他者への諦めと期待の欠如<外的環境>

アドラー心理学的な思想だが、他者に生きないというのが大切で、ストレスの根源を諦める、柔らかに表現するなら許容することが求められます。無論潰すことが出来たら良いですが出来ないことが多いと思います。これは我慢というよりかは本当に諦める、ということを意識すべきです。村上春樹の言う「一時退避して殻にこもる」というのと合致するかと思います。

ある方と、「許容」と「諦観」は似ているという話をしました。実際これには驚かされて、確かに許す事は諦めることに近いな、と感じた。僕の思う両者の違いは「そこに寛容さ、また繰り返して改善を目指す」ことの有無だと思います。つまり、前者にはそれがあって、今回は諦めよう、という「瞬間的諦め」であり、後者は今後環境が改善されることは無いだろうという「半永続的諦め」であるのです。

 

今回は半永続的諦めを取り入れ外的要因のストレスの軽減を目指す、という考えです。

 

これまで上げたことは確かに普遍的というか、陳腐なものです。しかし、実際に社会、あるいは現代人はこれが欠如しているように感じられるし、僕もその例に漏れません。

上に挙げた目標を着実にこなすためにも、やはり情熱と論理性のふたつが求められるのではないだろうか。