私的平沢進(P-MODEL)セレクト

馬の骨(端的に言えば平沢進のファン)である。彼の幅広くそして長い音楽活動の中から私の好みの曲を少しではあるが挙げようと思う。

主にヒラサワの曲はスピリチュアルで荘厳なものと、電子音が使われている近未来的なものとにわかれる。この中間も存在するが。

好きな順に書いていく。

また、P-MODEL(彼の率いていたバンド。今も核P-MODELという名で存在する)時代のものも含める。

 

夢見る力

2D OR NOT 2D

遮眼大使

гипноза(ギプノーザ)

それ行け!Halycon

Archetype Engine

白虎野

論理空軍

世界タービン

Ashura Clock

ANOTHER DAY

夢みる機械

パレード

LEAK

美術館で会った人だろ

MOTHER

金星

BIG BROTHER

Forces

確率の丘

地球ねこ

夢の島思念公園

 

こんなところだろうか。彼の手がけた曲は膨大な数ある。どんどん発掘していって欲しい。また、僕はたまたま、彼の趣向というか、スピリチュアルとエレクトロニカという二面性に、適応できた、そもそも両方好んで聴く人間であったために件のようにベクトルがかなり異なる曲選びをしている。

 

どちらか苦手であるならば、大体の判断の仕方としてP-MODELで作っているものは電子的、ソロのものは宗教的と認識して貰えるとわかりやすいだろうか。無論例外も存在するではあろうが、傾向はそのようになっている。

 

是非聞いて欲しい。

意識、モラールについて

これはもうほんとに個人的なことになる。

今回はモラール、わかりやすく言えばモチベーションとそれに伴う心身の健康について。

端的に言ってしまうと「がんばろう」という言葉を送るのに回りくどく書いてる感じです。

タスク解消のモラール

生活において僕は今かなりプレッシャーのあるというか、常々迫られもう据え置き機のゲームのできない期間にあるのです。

だからよりタスクに時間を割くのは勿論、意識して取り組む、能率的なタスクへの向かい方をしなければならない。

今日は所謂根性論が叩かれている(僕もそれを嫌う人間の例に漏れないのだが)が、僕のスタンスとしては根性があるのは”至極当然”であり、そこに論理性を加えてこそ至高の取り組みができる、と考えている。

因みに僕にはおそらくその両方が足りていないのだが、やはり強いて言うならば今の僕には根性、否、モラールが足りていないのだ。

 

タスクに取り組むのに辟易するし、特に最近は疲弊しているような感じがする。趣味に割く時間の削減が起因してストレスフルだし、外的要因のストレスにも過敏だ。

そこで見出した目的はふたつ。

 

区切りとカタルシスの確立<内的環境>

人間が物事に集中できる時間は一般に1時間ほどで、長くとも2時間までであるとされている。

では私がタスクに向き合うのにその時間だけでも全神経を集中出来ているか、というとおおよそ言いきれないだろう。

だからこそ意志力をもって取り組む必要がある。ここは単純に意識の問題だ。簡単なことではあるがかなり大きな課題である。

そしてカタルシスについて。

浄化、と表現するのがわかりやすいだろうか。僕のカタルシスは読書とゲームと運動だ。が、今の僕の環境ではこれを成すことが非常に難しい。だからこそ手軽なソリューションを見出さねばならない。風呂とかは比較的それに類すると思う。

すこし話がずれるがプロゲーマーのときど氏の試合前の心拍数を上げる運動(その場で高速でダッシュ)は興味をもった。実に論理的だし、ルーチンに成りうるだろう。

 

つまり没入するための自己の環境作りが求められると僕は考える。

 

他者への諦めと期待の欠如<外的環境>

アドラー心理学的な思想だが、他者に生きないというのが大切で、ストレスの根源を諦める、柔らかに表現するなら許容することが求められます。無論潰すことが出来たら良いですが出来ないことが多いと思います。これは我慢というよりかは本当に諦める、ということを意識すべきです。村上春樹の言う「一時退避して殻にこもる」というのと合致するかと思います。

ある方と、「許容」と「諦観」は似ているという話をしました。実際これには驚かされて、確かに許す事は諦めることに近いな、と感じた。僕の思う両者の違いは「そこに寛容さ、また繰り返して改善を目指す」ことの有無だと思います。つまり、前者にはそれがあって、今回は諦めよう、という「瞬間的諦め」であり、後者は今後環境が改善されることは無いだろうという「半永続的諦め」であるのです。

 

今回は半永続的諦めを取り入れ外的要因のストレスの軽減を目指す、という考えです。

 

これまで上げたことは確かに普遍的というか、陳腐なものです。しかし、実際に社会、あるいは現代人はこれが欠如しているように感じられるし、僕もその例に漏れません。

上に挙げた目標を着実にこなすためにも、やはり情熱と論理性のふたつが求められるのではないだろうか。

ドラゴンクエストライバルズ

ドラゴンクエストのキャラブランド性を活かし、ディジタルのトレーディングカードゲームとしてサービスを開始したドラゴンクエストライバルズ(以下ライバルズ)。

従来のハースストーン等に近いシステムだが、独特の要素も取り入れており選択の幅が広く、おそらくShadowverseよりその要素では勝っているだろう。

サービス開始当初は少しやっていたが、つまらなかったわけでもなかったのだけれどなんとなくやらなかった。

しかし最近になって特筆してやるスマホゲームがないと気づき手を出した次第だ。

若干カードを集めにくい設定ではあるが、それなりにデッキを作って楽しんでいる。無課金でも比較的楽しめると思う。

 

僕はまだこのゲームについて話せるほど知識もないので、とりあえずやっているということをここに記す。

アグロテリーを取り敢えず作って、プラチナまでは負け無しで行くことが出来た。おそらくプラチナ未満まではデッキ構成もおざなりだし(これは知識的にも、また費用的にも不足しているからであろう)、そのゲーム性からプレイングも身についていないのだと思う。が、ハチャメチャに難しい訳でもないと思うので、慣れれば比較的すんなりとプラチナまではいけるのではないだろうか。連勝ボーナスもプラチナまでは存在するのも大きい。

 

新パックも来るので楽しみだ。

 

おごりたかぶるリスク

詳しくは言わないが、

これは成功するのではないか、という些か難易度の高い物事に対して初心(こんなの無理なんじゃないか、という正常な判断)を忘れちゃうと、成功しなかったときに痛い目を見る、というのを人生で幾度となく経験してきた気がする。

 

今日もそれがあって、見事精神がうちひしがれた。

なので妥協の道をキチンと探さなくちゃあいけない。

いつか、僕の身に何があったかは書こうと思う。

 

気になった身内の方々はDMでお答えします(ここでいう身内は僕と直接あったことのある人を指す)。

 

自分のおかれた状況、事象との距離をキチンと測り、正しく企図することが大事だと身をもって感じたのでした。

 

おしり

CSのFPS、TPSでのマウサー批判について思うこと

主に最近はフォートナイトで見られる。

とはいえ、随分小さな話題だ。
結論から言うと、そんな小さな話題にならない程度の「クソ的外れで稚拙で下らない論争」だ。

どういうものか説明する。
PS4等でフォートナイトをやるとする。
CSではデフォルトのコントローラーでやるのが自然(?)だ。

だが、PS4に対応したマウスが存在する。件のゲームではエイムがよりよくなるマウスが有利だ。

そして、どうもこれに対してぶーぶー言っているらしい。

なんてくだらないんだろう。
言い分は(まぁいくらかあるだろうが顕著なものを)、「ずるい」、「マウサーの癖に雑魚じゃん笑笑」、「勝てるわけない」というものだ。

考えても見てほしい。フォートナイトにおいて、マウスは承認されている。
マウスを使うことはなんら悪いことではない。もうこの時点で批判することはできないのだ。ずるくなどない。
マウスはたしかにデフォルトのコントローラーよりも有利であろう。
が、それを理由に下手だとか言うのもおかしいし、勝てるわけないというのもお門違いだ。そんなに嫌ならマウスを買えばいいのだ。

マウサー批判の根源的理由とはなんだろうか。

それはルサンチマン、だ。
意味については各々調べて頂きたいが、つまるところ、マウサーに負けたことから、マウスを使ってるやつはクソだと思考することにより、自己肯定をしているのだ。

ここから先、思考は二つに別れる。
一つは、価値観への隷属。
もう一方は、価値の否定、だ。

前者は、「みんなやってるしマウスにしよ笑笑。マウスねぇとダメだしこのゲーム笑笑笑。」という思考。
後者は「マウスとかいらねぇから笑笑。マウス使っても変わんねーし、やっぱマウサーってゴミ笑笑笑。」という思考。

じゃあどうすれば良いのだろうか。

どちらのルートもその表面上は同様の行動であっても、そレに至る精神によってポジティヴなものにできる。

前者を成すには、「マウスは便利であって、通常コントローラーでもできなくはないが、有利になる利器である。だからマウスを使おう」という心持ちが必要であり、後者は「マウスの方が有利ではあるが、とりあえずコントローラーで頑張ってみよう」という精神が求められる。

マウスは悪ではないと断言出来る。
にも関わらず己のエゴに飲まれて暴論を言うのはお門違いだ。

確たる己を有し、フェアな見地を持つことは、このこと以外にも多く役立つだろう。

ゲームが僕に与えたアニマ

今週のお題「ゲームの思い出」
よくわからないが、
上記のお題なるものが存在していたので、
ゲームの思い出━━━というよりは僕に授けた知識の振り返りというべきか━━━を書こうと思う。

過去に書いた気もしなくもないが、僕がゲームから学んだことは二つに大別される。
ひとつは「純粋な知識」だ。
例えば、僕はファイナルファンタジーで神(デザインは多少異なれど、そのアウラや名称は宗教的事実と反さない)の存在を知り、純粋な基礎知識を得た。呪文も英語が元として名付けられていて面白い(特に無属性呪文のルインなんかはなかなかセンスに溢れている)。

また、そんな知識の中でもより精神的な━━━それはバイアスにより誤解しがちなことを正すような━━━成長も促した。
「僕にその手を汚せというのか」の科白で有名なタクティクスオウガは僕に正義というものの多元性を説いた。ある正義に尽くすために一方の正義を捨てることになるというのは鮮明なインパクトを与えた。

そしてふたつめは「努力と情熱」である。

今日のゲームシーンにおいてe-sportsの名は広まっている。ゲームはリアルの事物よりもアクセスしやすく、また身体的差異による不利が(基本的に)ない。そしてより技術介入度の高いゲームは獲得し得なかった情熱をプレイヤーに付与する。
理不尽な点の多い今日の社会よりも筋が通っていて平等さを感ぜられる。
遇にゲームが社会的地位を有していなかっただけであり、その他のスポーツや取り組みと同様に素晴らしいと知るのだ。

すなわち、ゲームは僕に知恵と熱意を授け、今の僕の核に色濃く影響を残した。ゲームは文学にもなりうるし、スポーツにもなりうる。その形態をもってして様々な概念に変容する優秀な媒体なのだ。

Twitterという超巨大アゴラ集合体

Twitter、おそらく僕はハマっている。少なくとも、使い方、楽しみ方は理解していると思う。

はじめ、Twitterってなにを呟けばいいのかなかなか分からないものだ。僕の多くの友人もTwitterを始めみたけれども呟くことがない、と言って消えていく。

僕のつぶやくことはゲーム関連が高い割合を占めている。時たま哲学、思想を語る程度だ。

僕は、Twitterにより形成されるいくつものアゴラ(広場、コミュニティ)に介入する、というそのシステムにおいて、不快なものはミュート、リムーヴを躊躇なくする傾向にある。ただでさえ娯楽的概念なのに、そこにネガがあるなら躊躇わず切り捨てるべきだ、という考えのもとだ。これはリアルにおいても適応される。要らない人間はどんどん捨てる。

僕を知る人は「おいおい、お前はランクマで負けてヘラってんだろうが、言えた立場じゃあないぞ」と言うだろう。

...........正解!w

僕はあんまり立派な人間じゃあないので、実際、もし僕みたいな奴を何かしらのキッカケでフォローしたならば、リムーヴするのにそう時間はかからないだろう。

アゴラはどんどん肥大化する。
肥大化すると、もし誰かに不快感を持った時に排除するのが苦しくなる。
そうなると些か厳しい。
そんな時はミュートを使っている。
そして私はきっと多くの方にミュートされているだろう。その方に言いたいことはただ一つ。


ごめーーーーーーーーーーーーーーーん